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■CAST:ピオニー・マリィベル
■殿下と伯爵家令嬢、宮殿の庭をお散歩 の巻
■殿下と伯爵家令嬢、宮殿の庭をお散歩 の巻
秘密の花園
----------
ピオニー様、と。名を呼ばわる女官や煩わしい周囲の視線から逃れた、庭木の上。さっきから、視界の端に、白い影が行ったり来たり。なんだろうと意識を向けると、それはどうやら白いドレスの裾らしい。俺よりは幾つか年下の……5・6歳だろうか、見覚えのない女の子。回廊の端までとてとて歩いて、立ち止まり、辺りを窺ってはまた戻り、ということを繰り返しているようだ。
これは、ひょっとしなくても。
「どうした、迷ったのか?」
傍を通りかかるタイミングを見計らい、樹上からそう声を掛ければ、
「ち、ちがうわ! ただの、そう、ただの散歩よっ!」
その女の子は振り向きざま、強い調子でそう叫んだ。なかなか気丈な子だ。
「そっか。すまないな、勘違いして」
声の出所を捜してきょろきょろと周囲を見回す様子に、上だよと声を掛け、きちんと視線が合ったところで飛び降りる。
「あ……」
驚かさないように気をつけたつもりだったんだけどな。大きく瞠られた目に首を傾げる。
「ん? どうした」
「……なんでもない……わ」
じっ、と見上げてくる瞳は、何でもないようには見えないけれど。ふるふると振られた首に、追求は控える。その代わり。
「散歩なら、よければ案内しようか」
「えっ」
「観光コースから秘密の抜け道まで。ここには詳しいからな。好きなところに送ってやるぞ?」
まあ、これも何かの縁。相手は小さな女の子だし、袖振り合うくらいなら、お互い害毒となることもないだろう。それに、この宮殿に関する知識も、もうじき無用の長物になる。その前に役に立つならと思うのは、少しばかり貧乏性だろうか。
「ま、迷ったわけじゃないのよ」
「うん」
ああ、意志が強そうというだけではなくて、聡い子なんだ。『送る』と言った意味を、ちゃんとに察している。
「でも、お喋りする相手がいたなら、散歩はもっと楽しいと思うの」
「なるほど、確かにその通りだ」
それにこの子は、話し相手としてもなかなか楽しそうだ。
「じゃ、どうしようか」
この『迷子ではない』お姫様をお送りするには。
「案内、するのは……そうだな、地方領主の仮住まい、とか、そっちでいいか?」
貴族の子息令嬢を全て把握しているわけではないけれど。どうやら俺を知らないようだし、この子は多分、グランコクマに住んでいるわけではない。でも、この年齢で充分に躾られた姿勢の良さや、装飾は抑えられ、その代わり生地や仕立ては極上という衣服を見ると、間違いなく貴族。だからその辺ではないかとアタリをつけたわけだけど、その子はちょっと考えてから首を振った。
「あのね。その前に、滝をもう少し近くで見てみたい」
その前、ってことは、最終的にはそっちでいいってことか。
それにしても物怖じしないというか現金というか、なかなか逞しい子だ。
「滝ね。了解」
こっち、と指で示して歩き出すと、りっくりっくと弾むような足取りでついてくる。かーわいいなあ。ふわふわと揺れる髪は、かぼちゃのスープのようだ。ああでも、かぼちゃの黄色は綺麗だけれど、女の子をかぼちゃに喩えるのは微妙か。なんだろうな、蜜柑……は、かぼちゃよりは褒め言葉らしいか? いや、食い物から離れた方がいいな。植物なら花、そう、金盞花とか。うん、金盞花。愛らしい菊は、なかなか良いじゃないか。
そして、よく動く視線の先を追うと、小鳥だったり花の蕾だったり。ふーん、そういうのに興味を惹かれるんだ。この宮殿の見どころははどっちかって言うと建築物の方なんだが、ま、好みに合わせるか。そう、滝を見るなら一応、玉座の背後、水鏡の滝が名所ってことになっているけど。でも俺は、謁見の間って実はあんまり好きじゃない。綺麗っちゃ綺麗なんだろうが、あそこ、淋しい檻のように感じるんだよな。この子の、明るい瞳や元気が余っているような四肢には、青空の下が似合いだ。何代か前の酔狂者が水簾を楽しむために造らせた庭園とか、そっちの方がいいだろう。
遊歩道から外れて木漏れ日の下を歩き、ときには下働きの者が使う細い裏道を抜け、造形の途中で小柄な女性や子供なら通れないこともない垣根にあいた穴を潜り、蔦の緞帳に覆われた木製の扉を開き。趣向の異なる幾つかの庭を通り過ぎる。わざと正規の順路ではなく、大人……特に貴族はまず通らないような経路を選んでみたけれど、隠れ道を行く趣向はどうやらお気に召していただけたようだ。人が通るたび、なんとなく二人して隠れん坊のように身を屈め、秘密を共有するように顔を見合わせて、くすくすと笑う。
「楽しい。ね?」
「そうだな、俺も楽しい」
それは掛け値なしに本当。世間でいうところの『妹』って、こんな感じじゃないかと思う。にっこりと笑ってみせれば、なんだか妙に驚いたような顔。……さっきもこんな顔をしていなかったっけか。俺が、樹の上から飛び降りたとき。いきなりのことに驚いた、というよりは、冷たいと思っていたものが温かかったような、意表を突かれたというような表情。
「……おれ?」
「ん? なに?」
まじまじと見つめられて、やっぱりさっきもこんなだったな、と思う。
「あ、えっと……その。おれっていうの、似合わない」
「そんなに似合わないか?」
きっぱり言われて苦笑すれば、小首を傾げて何やら考える様子。
「似合わない、というか。僕とか私とかなら、おうじさまにも見えると思う」
絵本のおうじさまが金の髪で青い瞳だったの、ということだから、別に鎌を掛けられたわけではない、だろう。
「皇子、ねえ。……は、柄じゃねえなあ」
言葉に皮肉が混ざらないように注意しながら、そう嘯く。この子は、俺のこと……これから飼い殺しにされる俺のことは、知らないままの方がいい。
「あ、ちょっと此処で待ってろな」
話を変えるために、そう区切る。ちょうど、この辺りに植えてある、鳥の声を庭に呼ぶための木の実が食べ頃のはず。茂みに入った俺を追ってこようとする気配を感じて、振り返ると案の定。
「待ってろって」
ひとまず強く制止してから、不服そうな顔に向けて理由を添える。
「いや、来てもいいけど、そこの葉っぱに触るなよ」
「えっと、これ?」
「そう。触るとかぶれるぞー」
「うちでは見たことない……。ものしりなのね」
「食えるものと食えないものの区別くらいはな」
片目を瞑れば、食いしん坊さんねえと笑う。食い意地が張ってる、ってのはいいな。自衛手段として植物毒に詳かというより、余程。
人馴れした囀る小鳥と分け合いながら、程良く熟した実を摘む。
「で、これは食べられるもの。……どした?」
軽く一握りぶん、掌に乗せる。ちゃんとに受け取りはしたものの、なにやら躊躇う様子。こういうの、好きそうな子に見えたんだけど。
「嫌か? うまいんだけどな」
「あ、ううん。あの、こっちの子って、こういうこと……お庭の木の実を摘んで食べたりはしないんだって思ってた」
浮かない、ってか。ちょっと強張ったような表情。こりゃ、貴族らしさを勘違いした馬鹿どもに虐められたかな。ああ、出会い頭、弱みを見せない強気な態度だったのもひょっとしてそのせい、か?
「あー…。でもそりゃ、時と場合にもよるだろ。少なくとも俺に遠慮する必要はないぞ?」
安心させるように一つ二つ先に食べてみせると、やっと表情を緩めた。
「……うん。いただきます」
「洗って、綺麗に盛りつけて、クリームなんか添えてあるのもいいけれど。摘みながら食うのが一番うまい気がするんだよな」
「わたしも! あのね、あとね。たくさんつんで、ジャムにしてもおいしいの」
「ジャムねえ。楽しそうだな、そういうのも。たくさんってどれくらい摘むんだ?」
「えと、かごいっぱい。それにお砂糖を加えて煮詰めてね、そして……」
やっぱり笑った方が可愛いな。あと、急がせるわけでもないのに、なにやら必死にむぐむぐ食べる様子も。そういやお喋りも一生懸命だし、小さい手で小さい口で、こう、力一杯な感じが可愛いのか。
この金盞花の君は。ともすると俺の歩調に合わせようという意気込みが感じられるくらい、なかなか男前で。その心意気を挫かないよう、歩幅は変えずに速度だけ落とし、ゆっくり歩く。ああ、こんなにのんびりした気分は久しぶりだ。この子が貴族の令嬢だとしても、『何処』の子だか、今はまだ判らない。お互いの立場を知らないままの方が心安いだなんて、淋しいけれど、楽なことも事実。どこまでも俺にまとわりつく立場。立場立場立場。放棄できたら、どんなにか。そう、俺が皇子でなければ、兄上たちも……、いや。そんな仮定に意味はない、か。
ふと、指先に柔らかいものを感じて見遣れば、そっと繋がれた手。どうしたのと問うように見上げてくる瞳。
あーあ、気を遣わせちまったか。
なんでもないと言う代わりに笑顔を作って、軽く握り返せば、花が咲くように笑う。
「もうすぐだ。見えるか、あの扉」
もともと人を呼ぶためではなく、ちょっと息抜きに来るような庭への扉は、ぼんやりしてると見落としそうなほど周囲に同化している。こういうのも野趣、って言うのかな。細心の注意を払って自然のままを演出するのは、なんだかなあと思わなくもない。ただ、小径の両脇に並ぶ木立は悪くない。その樹から張り出した枝に蔓薔薇が絡み、頭上を弧に覆う通路はどこか秘密めいていて、好奇心を擽る。そして連理枝と薔薇のトンネルを抜けると、虹の架かる大滝。
「うわあ……」
庭自体は、それほど広いものではない。けれど、狭い道が拓けた先に大瀑布というのは視覚効果としてばっちりだ。
「滝の近くって此処でいいか?」
そう問えば、半ば放心したように、こくりと頷く。
グランコクマを取り巻く滝は、壮観ではあるけれど、譜術で完璧に制御されているせいか、静謐な印象すらある。那由他の泡沫が淙々と奏でる音も、かえって静けさを引き立てているようだ。この滝の音を意識するたび、静寂と無音は必ずしも等しいわけじゃないんだなあと思う。蕩々とした、穏やかに明るい響きなのに、気持ちのありようによっては、ひどく寂しくも聞こえる、音。
「ここは、とても綺麗なところね」
「……そうか」
そう思って貰えたなら、良かった。
なんか、な。せっかく帝都まで来て、迷子になったり貶されたりってのは、な。自分が住む国の都だ、ひとつでも良い思い出を残してやりたいよな。どうやら少しは役に立てたみたいで、御の字御の字。
「うん、世界で二番目に」
「へえ。じゃあ、一番は?」
「決まっているわ。わたしのおうちよ」
片手を腰に当てて、誇らしげに胸を張る。
「緑と、花と。綺麗なのよ。季節ごとに違う花が咲くの。あ、ここの、滝とか川とか水の青も綺麗だけど」
「まあ、グランコクマは水の都って呼ばれるくらいだしな」
「水の都の青……でも……」
そう言いかけて、ふと口を噤み。何を連想したのか、
「……ね、また会える?」
と、いきなり話題を変えた。
「会えたらいいな」
そう笑うしかない俺に
「会えないの?」
そう、金盞花の君は首を傾げた。
女の子の、こんなところって敵わないと思う。
「ここで会うのは難しい、かもしれないな」
「ふうん、そう……」
嘘はつきたくないけれど。だから却って誠実から懸け離れた返答に、何かを思案するように呟いて。結論が出た、とでも言うように、ひとつ大きく頷く。
「でも、忘れなければいいだけよね。そうしたら、ここじゃなくても、どこかで会えるかもしれないし」
繋いだままの手に、柔らかくもう片方の手も添えて。誓約するかのように神妙な面持ちで、言葉を紡いだ。
「わたし、あなたのことは簡単に忘れないと思うわ。うちにね、羽がはえたお人形さんがいるんだけれど、あなたを見たとき、それが色を持って動いたように思ったの」
だから、忘れないと。
そう微笑んだ金盞花の君と、再会することはやはり叶わなかった。
しかし、何の因果か。今、俺の傍らには菊の花が一輪。個性に差はあれど、姉弟と言われて素直に頷ける程度に、面差しは似ている。姉君の方が、幾分勝ち気であったようにも思うが。
「……陛下?」
どうかなさいましたかと窺うような視線に、甘やかな懐かしさが込み上げる。
「ここの景色は世界で二番目なんだとさ、ガイラルディア」
----------
【あとがき】
マリィベル嬢は、ガイのトラウマイベントのときと、あとはレプリカなマリィさんのイメージが強いので、なかなかにオットコ前な印象があります。まだまだあどけない、けれどその片鱗は見えるようなマリィベル嬢と、まだ韜晦も進んでいなくて少し鬱屈した雰囲気もありつつこれで成長すると『陛下』になるんだなあというピオニー殿下を表現できたらなあと思ったのですが。ががが。
そして、以下は伏線回収的後日談。
初書きヴァン師匠がこんなことになろうとは、ワタクシ自身思ってもみませんでした、よ。
----------
グランコクマからホドへと向かう連絡船は定時通りに出航した。明朗快晴波低し。絶好の航海日和と言えるだろう。その好天の下、ヴァンデスデルカは艫に佇む主の姿を見留めた。
「……マリィベルさま」
次第に遠ざかる帝都を見遣るマリィベルの表情がいつになく沈んでいるように見えた少年は、そっとしておいた方が良かっただろうかと思いつつ、遠慮がちに声を掛けた。
「お気分がすぐれませんか?」
「ああ……、いえ。なんでもないわ。ただ、今回も会えず仕舞いだったと思っていただけ」
滝を見た庭園……あの蔓薔薇の天涯に続く扉も、折を見ては捜しているのに、どういうわけか見つからないし。ああもう、あの方の名を聞いておかなかったのはつくづく失敗だったわ。マリィベルは欄干に凭れ、ほう、と溜息をついた。
昔、マリィベルがグランコクマ宮殿で出会ったという少年の話は、ヴァンデスデルカも聞いていた。そのことだとすぐに思い至ったものの、正直、ヴァンデスデルカにとって愉快な話題ではない。
「でも、名前を聞く必要があるなんて思わなかったのよね」
というか、よくよく思い返してみると、どうもあの方はわざと名乗らなかったような節もあって。……それでも。
「再会できたら、判らないわけないもの。まず間違いなく立派な殿方に成長されているはずだし」
「……それはどうでしょうか」
些か険を含んだ調子でそう返した少年にちらと視線を送り、マリィベルは肩を竦めた。
「言いたいことは、判るつもり。歳をとることと成長することは違うものね。でもね、ヴァンデスデルカ。たとえば、あなたの数年後の姿に思いを巡らせるとき、背が伸びて筋肉がついてということはともかく、贅沢や不摂生が祟って面影も感じられなくなるような……そんな姿は想像できないの。あの方も、それと同じ」
褒められたのか、思った通りのことを言ったまでのことなのか。どちらにしても、それは嬉しい、けれどそれは大切な主の想い人を指していることでもあり、素直に喜べない。そんな葛藤に、少年の眉が寄る。
「それに、たとえなにか不幸な事故があって、面影が消えていたとしても。凄く印象的な瞳の方だったから、やっぱり判らないわけがないのよ」
青の都で、最も綺麗だと思った、青の瞳。
マリィベルにとって、グランコクマを象徴する青と言えば、その瞳の色だった。
美しい夢のような記憶。移りゆく季節のなかで思い出の輪郭は曖昧になり、それでもあれは白昼夢などではないと断言できるほど、鮮烈な青。あの方は、ここで会うのは難しいと、そう仰った。それはきちんと覚えている。曖昧な、それでいて確信に基づく言い回し。それから鑑みても……再会がいまだ叶わぬことを考えても、確かにあの方はグランコクマにいらっしゃらないのだろう。どこか別の場所で会えるかもしれないと言ったのは自分。けれど、もし巡り会えるならば、グランコクマの他は考えられない。これは、根拠などはなにもない、けれど確信めいた予感。どういう事情があるにせよ、あの方は必ず帝都に戻られる。あの都は、あの青い瞳を得られぬ限り、全き青の都とは言えぬが故に。そう、マリィベルは思う。
「会えたとして、どうなさるんですか?」
面白くない、と。その感情をうまく隠せていないヴァンデスデルカに、マリィベルは歌うように告げた。
「会いたいと思うだけでは駄目かしら?」
軽く息を呑んだ少年に、彼の主は残酷なほど屈託なく微笑む。
「私は、父上やあなたのお父様、あるいはペールギュントのような、穏やかで、けれど一本筋の通った騎士という風情の方を好ましく思うけど。あの方はちょっと特別なの。あの方のまわりだけ輝いて見えたことを思うと、憧憬とか、ひょっとしたら崇拝に近いのかもしれないわ。ほら、うちに翼ある人の彫像があるじゃない? 初めてあの方をお見かけしたとき、その有翼人……天使が舞い降りたと思ったくらいだもの」
長い金の髪が、潮風に遊ぶ。少年は、その『ちょっと特別』は一般的には恋心と呼ばれるもので、『輝いて見えた』ことは所謂一目惚れではないかと思いもしたが、それを口に出したりはしなかった。もし問い質していたならば、良くて十倍返しの反論、最悪藪蛇ということも有り得るわけで、とにかく、少年は実に賢明だった。
「あの方は、けぶるような金の髪、すらりとしなやかに伸びた背と、まるで光に象られた若木のように清しく優美なお姿をしてらしたけど、口調はかなりざっくばらんで。でもそこからは気遣いや思慮深さが感じられて。それがとても格好良かったの。上辺を繕ったものではない気高さとはこういうものかと思ったわ。そして、ついつられてしまうほど笑顔が素敵で、それなのにふと遠くを見つめるような孤高の翳もあって……ええ、やっぱり憧れの人」
何かを思い出したという風情で。ほろほろと花が綻ぶように、金盞花の君は笑う。
「言ったこと無かったかしら? あの方が自分のことを『俺』と称するまで、私、なんて素敵なお姉様と、そう思っていたのよ?」
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ピオニー様、と。名を呼ばわる女官や煩わしい周囲の視線から逃れた、庭木の上。さっきから、視界の端に、白い影が行ったり来たり。なんだろうと意識を向けると、それはどうやら白いドレスの裾らしい。俺よりは幾つか年下の……5・6歳だろうか、見覚えのない女の子。回廊の端までとてとて歩いて、立ち止まり、辺りを窺ってはまた戻り、ということを繰り返しているようだ。
これは、ひょっとしなくても。
「どうした、迷ったのか?」
傍を通りかかるタイミングを見計らい、樹上からそう声を掛ければ、
「ち、ちがうわ! ただの、そう、ただの散歩よっ!」
その女の子は振り向きざま、強い調子でそう叫んだ。なかなか気丈な子だ。
「そっか。すまないな、勘違いして」
声の出所を捜してきょろきょろと周囲を見回す様子に、上だよと声を掛け、きちんと視線が合ったところで飛び降りる。
「あ……」
驚かさないように気をつけたつもりだったんだけどな。大きく瞠られた目に首を傾げる。
「ん? どうした」
「……なんでもない……わ」
じっ、と見上げてくる瞳は、何でもないようには見えないけれど。ふるふると振られた首に、追求は控える。その代わり。
「散歩なら、よければ案内しようか」
「えっ」
「観光コースから秘密の抜け道まで。ここには詳しいからな。好きなところに送ってやるぞ?」
まあ、これも何かの縁。相手は小さな女の子だし、袖振り合うくらいなら、お互い害毒となることもないだろう。それに、この宮殿に関する知識も、もうじき無用の長物になる。その前に役に立つならと思うのは、少しばかり貧乏性だろうか。
「ま、迷ったわけじゃないのよ」
「うん」
ああ、意志が強そうというだけではなくて、聡い子なんだ。『送る』と言った意味を、ちゃんとに察している。
「でも、お喋りする相手がいたなら、散歩はもっと楽しいと思うの」
「なるほど、確かにその通りだ」
それにこの子は、話し相手としてもなかなか楽しそうだ。
「じゃ、どうしようか」
この『迷子ではない』お姫様をお送りするには。
「案内、するのは……そうだな、地方領主の仮住まい、とか、そっちでいいか?」
貴族の子息令嬢を全て把握しているわけではないけれど。どうやら俺を知らないようだし、この子は多分、グランコクマに住んでいるわけではない。でも、この年齢で充分に躾られた姿勢の良さや、装飾は抑えられ、その代わり生地や仕立ては極上という衣服を見ると、間違いなく貴族。だからその辺ではないかとアタリをつけたわけだけど、その子はちょっと考えてから首を振った。
「あのね。その前に、滝をもう少し近くで見てみたい」
その前、ってことは、最終的にはそっちでいいってことか。
それにしても物怖じしないというか現金というか、なかなか逞しい子だ。
「滝ね。了解」
こっち、と指で示して歩き出すと、りっくりっくと弾むような足取りでついてくる。かーわいいなあ。ふわふわと揺れる髪は、かぼちゃのスープのようだ。ああでも、かぼちゃの黄色は綺麗だけれど、女の子をかぼちゃに喩えるのは微妙か。なんだろうな、蜜柑……は、かぼちゃよりは褒め言葉らしいか? いや、食い物から離れた方がいいな。植物なら花、そう、金盞花とか。うん、金盞花。愛らしい菊は、なかなか良いじゃないか。
そして、よく動く視線の先を追うと、小鳥だったり花の蕾だったり。ふーん、そういうのに興味を惹かれるんだ。この宮殿の見どころははどっちかって言うと建築物の方なんだが、ま、好みに合わせるか。そう、滝を見るなら一応、玉座の背後、水鏡の滝が名所ってことになっているけど。でも俺は、謁見の間って実はあんまり好きじゃない。綺麗っちゃ綺麗なんだろうが、あそこ、淋しい檻のように感じるんだよな。この子の、明るい瞳や元気が余っているような四肢には、青空の下が似合いだ。何代か前の酔狂者が水簾を楽しむために造らせた庭園とか、そっちの方がいいだろう。
遊歩道から外れて木漏れ日の下を歩き、ときには下働きの者が使う細い裏道を抜け、造形の途中で小柄な女性や子供なら通れないこともない垣根にあいた穴を潜り、蔦の緞帳に覆われた木製の扉を開き。趣向の異なる幾つかの庭を通り過ぎる。わざと正規の順路ではなく、大人……特に貴族はまず通らないような経路を選んでみたけれど、隠れ道を行く趣向はどうやらお気に召していただけたようだ。人が通るたび、なんとなく二人して隠れん坊のように身を屈め、秘密を共有するように顔を見合わせて、くすくすと笑う。
「楽しい。ね?」
「そうだな、俺も楽しい」
それは掛け値なしに本当。世間でいうところの『妹』って、こんな感じじゃないかと思う。にっこりと笑ってみせれば、なんだか妙に驚いたような顔。……さっきもこんな顔をしていなかったっけか。俺が、樹の上から飛び降りたとき。いきなりのことに驚いた、というよりは、冷たいと思っていたものが温かかったような、意表を突かれたというような表情。
「……おれ?」
「ん? なに?」
まじまじと見つめられて、やっぱりさっきもこんなだったな、と思う。
「あ、えっと……その。おれっていうの、似合わない」
「そんなに似合わないか?」
きっぱり言われて苦笑すれば、小首を傾げて何やら考える様子。
「似合わない、というか。僕とか私とかなら、おうじさまにも見えると思う」
絵本のおうじさまが金の髪で青い瞳だったの、ということだから、別に鎌を掛けられたわけではない、だろう。
「皇子、ねえ。……は、柄じゃねえなあ」
言葉に皮肉が混ざらないように注意しながら、そう嘯く。この子は、俺のこと……これから飼い殺しにされる俺のことは、知らないままの方がいい。
「あ、ちょっと此処で待ってろな」
話を変えるために、そう区切る。ちょうど、この辺りに植えてある、鳥の声を庭に呼ぶための木の実が食べ頃のはず。茂みに入った俺を追ってこようとする気配を感じて、振り返ると案の定。
「待ってろって」
ひとまず強く制止してから、不服そうな顔に向けて理由を添える。
「いや、来てもいいけど、そこの葉っぱに触るなよ」
「えっと、これ?」
「そう。触るとかぶれるぞー」
「うちでは見たことない……。ものしりなのね」
「食えるものと食えないものの区別くらいはな」
片目を瞑れば、食いしん坊さんねえと笑う。食い意地が張ってる、ってのはいいな。自衛手段として植物毒に詳かというより、余程。
人馴れした囀る小鳥と分け合いながら、程良く熟した実を摘む。
「で、これは食べられるもの。……どした?」
軽く一握りぶん、掌に乗せる。ちゃんとに受け取りはしたものの、なにやら躊躇う様子。こういうの、好きそうな子に見えたんだけど。
「嫌か? うまいんだけどな」
「あ、ううん。あの、こっちの子って、こういうこと……お庭の木の実を摘んで食べたりはしないんだって思ってた」
浮かない、ってか。ちょっと強張ったような表情。こりゃ、貴族らしさを勘違いした馬鹿どもに虐められたかな。ああ、出会い頭、弱みを見せない強気な態度だったのもひょっとしてそのせい、か?
「あー…。でもそりゃ、時と場合にもよるだろ。少なくとも俺に遠慮する必要はないぞ?」
安心させるように一つ二つ先に食べてみせると、やっと表情を緩めた。
「……うん。いただきます」
「洗って、綺麗に盛りつけて、クリームなんか添えてあるのもいいけれど。摘みながら食うのが一番うまい気がするんだよな」
「わたしも! あのね、あとね。たくさんつんで、ジャムにしてもおいしいの」
「ジャムねえ。楽しそうだな、そういうのも。たくさんってどれくらい摘むんだ?」
「えと、かごいっぱい。それにお砂糖を加えて煮詰めてね、そして……」
やっぱり笑った方が可愛いな。あと、急がせるわけでもないのに、なにやら必死にむぐむぐ食べる様子も。そういやお喋りも一生懸命だし、小さい手で小さい口で、こう、力一杯な感じが可愛いのか。
この金盞花の君は。ともすると俺の歩調に合わせようという意気込みが感じられるくらい、なかなか男前で。その心意気を挫かないよう、歩幅は変えずに速度だけ落とし、ゆっくり歩く。ああ、こんなにのんびりした気分は久しぶりだ。この子が貴族の令嬢だとしても、『何処』の子だか、今はまだ判らない。お互いの立場を知らないままの方が心安いだなんて、淋しいけれど、楽なことも事実。どこまでも俺にまとわりつく立場。立場立場立場。放棄できたら、どんなにか。そう、俺が皇子でなければ、兄上たちも……、いや。そんな仮定に意味はない、か。
ふと、指先に柔らかいものを感じて見遣れば、そっと繋がれた手。どうしたのと問うように見上げてくる瞳。
あーあ、気を遣わせちまったか。
なんでもないと言う代わりに笑顔を作って、軽く握り返せば、花が咲くように笑う。
「もうすぐだ。見えるか、あの扉」
もともと人を呼ぶためではなく、ちょっと息抜きに来るような庭への扉は、ぼんやりしてると見落としそうなほど周囲に同化している。こういうのも野趣、って言うのかな。細心の注意を払って自然のままを演出するのは、なんだかなあと思わなくもない。ただ、小径の両脇に並ぶ木立は悪くない。その樹から張り出した枝に蔓薔薇が絡み、頭上を弧に覆う通路はどこか秘密めいていて、好奇心を擽る。そして連理枝と薔薇のトンネルを抜けると、虹の架かる大滝。
「うわあ……」
庭自体は、それほど広いものではない。けれど、狭い道が拓けた先に大瀑布というのは視覚効果としてばっちりだ。
「滝の近くって此処でいいか?」
そう問えば、半ば放心したように、こくりと頷く。
グランコクマを取り巻く滝は、壮観ではあるけれど、譜術で完璧に制御されているせいか、静謐な印象すらある。那由他の泡沫が淙々と奏でる音も、かえって静けさを引き立てているようだ。この滝の音を意識するたび、静寂と無音は必ずしも等しいわけじゃないんだなあと思う。蕩々とした、穏やかに明るい響きなのに、気持ちのありようによっては、ひどく寂しくも聞こえる、音。
「ここは、とても綺麗なところね」
「……そうか」
そう思って貰えたなら、良かった。
なんか、な。せっかく帝都まで来て、迷子になったり貶されたりってのは、な。自分が住む国の都だ、ひとつでも良い思い出を残してやりたいよな。どうやら少しは役に立てたみたいで、御の字御の字。
「うん、世界で二番目に」
「へえ。じゃあ、一番は?」
「決まっているわ。わたしのおうちよ」
片手を腰に当てて、誇らしげに胸を張る。
「緑と、花と。綺麗なのよ。季節ごとに違う花が咲くの。あ、ここの、滝とか川とか水の青も綺麗だけど」
「まあ、グランコクマは水の都って呼ばれるくらいだしな」
「水の都の青……でも……」
そう言いかけて、ふと口を噤み。何を連想したのか、
「……ね、また会える?」
と、いきなり話題を変えた。
「会えたらいいな」
そう笑うしかない俺に
「会えないの?」
そう、金盞花の君は首を傾げた。
女の子の、こんなところって敵わないと思う。
「ここで会うのは難しい、かもしれないな」
「ふうん、そう……」
嘘はつきたくないけれど。だから却って誠実から懸け離れた返答に、何かを思案するように呟いて。結論が出た、とでも言うように、ひとつ大きく頷く。
「でも、忘れなければいいだけよね。そうしたら、ここじゃなくても、どこかで会えるかもしれないし」
繋いだままの手に、柔らかくもう片方の手も添えて。誓約するかのように神妙な面持ちで、言葉を紡いだ。
「わたし、あなたのことは簡単に忘れないと思うわ。うちにね、羽がはえたお人形さんがいるんだけれど、あなたを見たとき、それが色を持って動いたように思ったの」
だから、忘れないと。
そう微笑んだ金盞花の君と、再会することはやはり叶わなかった。
しかし、何の因果か。今、俺の傍らには菊の花が一輪。個性に差はあれど、姉弟と言われて素直に頷ける程度に、面差しは似ている。姉君の方が、幾分勝ち気であったようにも思うが。
「……陛下?」
どうかなさいましたかと窺うような視線に、甘やかな懐かしさが込み上げる。
「ここの景色は世界で二番目なんだとさ、ガイラルディア」
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【あとがき】
マリィベル嬢は、ガイのトラウマイベントのときと、あとはレプリカなマリィさんのイメージが強いので、なかなかにオットコ前な印象があります。まだまだあどけない、けれどその片鱗は見えるようなマリィベル嬢と、まだ韜晦も進んでいなくて少し鬱屈した雰囲気もありつつこれで成長すると『陛下』になるんだなあというピオニー殿下を表現できたらなあと思ったのですが。ががが。
そして、以下は伏線回収的後日談。
初書きヴァン師匠がこんなことになろうとは、ワタクシ自身思ってもみませんでした、よ。
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グランコクマからホドへと向かう連絡船は定時通りに出航した。明朗快晴波低し。絶好の航海日和と言えるだろう。その好天の下、ヴァンデスデルカは艫に佇む主の姿を見留めた。
「……マリィベルさま」
次第に遠ざかる帝都を見遣るマリィベルの表情がいつになく沈んでいるように見えた少年は、そっとしておいた方が良かっただろうかと思いつつ、遠慮がちに声を掛けた。
「お気分がすぐれませんか?」
「ああ……、いえ。なんでもないわ。ただ、今回も会えず仕舞いだったと思っていただけ」
滝を見た庭園……あの蔓薔薇の天涯に続く扉も、折を見ては捜しているのに、どういうわけか見つからないし。ああもう、あの方の名を聞いておかなかったのはつくづく失敗だったわ。マリィベルは欄干に凭れ、ほう、と溜息をついた。
昔、マリィベルがグランコクマ宮殿で出会ったという少年の話は、ヴァンデスデルカも聞いていた。そのことだとすぐに思い至ったものの、正直、ヴァンデスデルカにとって愉快な話題ではない。
「でも、名前を聞く必要があるなんて思わなかったのよね」
というか、よくよく思い返してみると、どうもあの方はわざと名乗らなかったような節もあって。……それでも。
「再会できたら、判らないわけないもの。まず間違いなく立派な殿方に成長されているはずだし」
「……それはどうでしょうか」
些か険を含んだ調子でそう返した少年にちらと視線を送り、マリィベルは肩を竦めた。
「言いたいことは、判るつもり。歳をとることと成長することは違うものね。でもね、ヴァンデスデルカ。たとえば、あなたの数年後の姿に思いを巡らせるとき、背が伸びて筋肉がついてということはともかく、贅沢や不摂生が祟って面影も感じられなくなるような……そんな姿は想像できないの。あの方も、それと同じ」
褒められたのか、思った通りのことを言ったまでのことなのか。どちらにしても、それは嬉しい、けれどそれは大切な主の想い人を指していることでもあり、素直に喜べない。そんな葛藤に、少年の眉が寄る。
「それに、たとえなにか不幸な事故があって、面影が消えていたとしても。凄く印象的な瞳の方だったから、やっぱり判らないわけがないのよ」
青の都で、最も綺麗だと思った、青の瞳。
マリィベルにとって、グランコクマを象徴する青と言えば、その瞳の色だった。
美しい夢のような記憶。移りゆく季節のなかで思い出の輪郭は曖昧になり、それでもあれは白昼夢などではないと断言できるほど、鮮烈な青。あの方は、ここで会うのは難しいと、そう仰った。それはきちんと覚えている。曖昧な、それでいて確信に基づく言い回し。それから鑑みても……再会がいまだ叶わぬことを考えても、確かにあの方はグランコクマにいらっしゃらないのだろう。どこか別の場所で会えるかもしれないと言ったのは自分。けれど、もし巡り会えるならば、グランコクマの他は考えられない。これは、根拠などはなにもない、けれど確信めいた予感。どういう事情があるにせよ、あの方は必ず帝都に戻られる。あの都は、あの青い瞳を得られぬ限り、全き青の都とは言えぬが故に。そう、マリィベルは思う。
「会えたとして、どうなさるんですか?」
面白くない、と。その感情をうまく隠せていないヴァンデスデルカに、マリィベルは歌うように告げた。
「会いたいと思うだけでは駄目かしら?」
軽く息を呑んだ少年に、彼の主は残酷なほど屈託なく微笑む。
「私は、父上やあなたのお父様、あるいはペールギュントのような、穏やかで、けれど一本筋の通った騎士という風情の方を好ましく思うけど。あの方はちょっと特別なの。あの方のまわりだけ輝いて見えたことを思うと、憧憬とか、ひょっとしたら崇拝に近いのかもしれないわ。ほら、うちに翼ある人の彫像があるじゃない? 初めてあの方をお見かけしたとき、その有翼人……天使が舞い降りたと思ったくらいだもの」
長い金の髪が、潮風に遊ぶ。少年は、その『ちょっと特別』は一般的には恋心と呼ばれるもので、『輝いて見えた』ことは所謂一目惚れではないかと思いもしたが、それを口に出したりはしなかった。もし問い質していたならば、良くて十倍返しの反論、最悪藪蛇ということも有り得るわけで、とにかく、少年は実に賢明だった。
「あの方は、けぶるような金の髪、すらりとしなやかに伸びた背と、まるで光に象られた若木のように清しく優美なお姿をしてらしたけど、口調はかなりざっくばらんで。でもそこからは気遣いや思慮深さが感じられて。それがとても格好良かったの。上辺を繕ったものではない気高さとはこういうものかと思ったわ。そして、ついつられてしまうほど笑顔が素敵で、それなのにふと遠くを見つめるような孤高の翳もあって……ええ、やっぱり憧れの人」
何かを思い出したという風情で。ほろほろと花が綻ぶように、金盞花の君は笑う。
「言ったこと無かったかしら? あの方が自分のことを『俺』と称するまで、私、なんて素敵なお姉様と、そう思っていたのよ?」
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