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サフィール・ピオニー

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「ようサフィール。珍しいな、お前がここに来るなんて」
 久し振りに会うピオニーは、事件……ネビリム先生の、あの事件の前と何も変わらないようだった。
 ケテルブルグでも有数の豪邸、その広い部屋。ソファもあるのに何故か床に座りこんで、稀覯書を無造作に読み散らかして。
 先生も、ジェイドも。もうこの街にはいないのに。ここは何ひとつ変わらないまま。
「ん、どうした? お別れを言いに来てくれたんじゃないのか?」
 いつもの顔で、いつもの声で。
 さらっと、あまりにもさらっと言われた言葉に、息を飲む。
「……どうして」
 何も言わないうちに、それが判ったのだろう。
 僕も、ケテルブルグから出て行くことを。
「お前が今、自発的に俺んとこに来るなんて、それくらいしかないだろ」
 考えるまでもないとばかりに言われた台詞に唇を噛む。
 ピオニーの。こういう、全部お見通しだという態度が大っ嫌いだ。
 ……けれどそれも今日でお終い。そう気を取り直して、鷹揚に頷いてみせてから、
「僕もグランコクマに行くよ」
 僕も、に力を込めて。自慢気な声音を抑えもせずに、ピオニーに向けてそう告げる。
 そう。僕はジェイドの待つグランコクマへ行くのだ。またジェイドと同じ夢を見るために。この地に縛り付けられた、お可哀想な皇子様を置き去りにして。
「……そうか」
 ぽつりと落とされた言葉に一瞬、勝ったと思った。
「まあ、いいんじゃないか?」
 そう、あっさり肯定されるまで。
「……いいの?」
 何か聞き間違えたんじゃないかと、うっかり問い返せば、
「駄目って言っても行くんだろが」
 そうピオニーは苦笑する。 
「お前の判断は、妥当だと思うぜ。ジェイドにも言ったが、今まではネビリム先生がいたから、それでもまだ良かったけれど。お前やジェイドにこの街は小さすぎる。少なくとも才能の使い方を覚えるまでは、広い世界にいた方がいい」
 ああもう本当、嫌いだこいつ。
 ここは何も変わらない、そう思ったのに。
 こいつも、ネビリム先生に懐いていたのに。
 それなのに、ピオニーはもう先生のことに対して、気持ちの整理をつけている。少なくとも、悲しむ様子を表に出してはいない。そしてそれは多分、僕自身が先生の事件を横で見ていた、そのことを知っているからで。
 悔しい。僕はこいつに敵わないままなのか。
 ……でも。
「……そうだね、この街は『檻のように』狭いから」
 でも、これから。ジェイドの傍にいられるのはこの僕だ。
「僕はジェイドのところに行くよ。ここに囚われる誰かさんとはもう会えないだろうけど」
 ああ、僕は酷いことを言っている。
 ジェイドと、ネフリーと、ネビリム先生と、それから何故か僕も巻き込んで、呆れるほど楽しそうに振る舞っていたピオニー。誰よりも、外の空気を満喫していた。それは本当の意味で自由を奪われるとはどういうことか、知ってることの裏返し。ピオニーは皇位さえ狙えるほど優先順位の高い継承権を持つ血統のせいで、立場とか身分とか、そういうものから一生逃れることはできない。自由の風が似合う本人の気質とは裏腹に。
 気の毒と言えば気の毒だと思う。……ちっともそうは見えないけれど。飼い殺しにされるならされるでもうちょっと殊勝なら同情の仕様だってあるのに、先頭に立って馬鹿騒ぎするってどういうことだろう。頼んでもいないのにお節介だし。ジェイドと遊んでいて、たまたま……そう、たまたま怪我なんかしたときも、別に僕は助けて欲しいなんて言わなかったし。でも、まあ、一緒にいて面白かったことが全くなかったわけでもない。
 そんなピオニーに、僕は、後足で砂を掛けてこの街を出る。ああ、雪を掛けての方が『らしい』かな。
 ……ピオニーは。それこそ政局が変わりでもしない限り、ケテルブルグから出られない。
 暢気で気楽で後から来たのに易々ジェイドを独り占めするピオニーに会うことは、多分もうない。眩しい日の光のような笑顔を見ることも、よく響く朗らかな声を聞くことも、ない。
 ああ、なんてせいせいする!
「さよなら、ピオニー」
































 せいせいした、はずなのに。なんで涙が止まらないんだろ?

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あなたへとどく20のことば:13 いっそ、さげすんで
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