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CAST:ネフリー・ピオニー
ネフリー、昔を回想する の巻

ナゴリユキ

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 音素灯の明滅に、ふと視線を上げる。
 居眠りをしていたという感覚はない。まばたき一回分の、意識の断絶。軽く肩を竦めて、仕上げたばかりの書類に、もう一度目を通す。ケテルブルグを預かる知事の印を丁寧に押して、疲労とも満足ともつかない、溜息をひとつ。
 今夜中に片付けておきたい仕事は、これでお終い。眼鏡を外して、レンズを拭う。
 眼鏡……。
 夜と雪が醸す静寂のなかで。
 慣性のまま、ゆっくり回転する思考。
 クールダウンするかのように。
 次第に速度を落としながら。
 瞬く記憶の欠片。
 ダイヤモンドダストにも似た煌めきは、やがてひとつの像を結ぶ。
 あれは、そう。
 初めて眼鏡を掛けたときのこと。
 あの頃。私はいくら背伸びをしても足りないと焦る子供だった。私の、もうひとりのお兄さんのようだったあの方……ピオニー様とは、子供にとっては埋め難い年の差があったから。



 眼鏡を初めて掛けたとき。鏡に映した自分の姿は、なんだか少し大人っぽく見えて、それが心を弾ませた。
 あの方……ピオニー様は、きっと眼鏡姿も褒めて下さるだろう。あの方は……たとえば新しいリボンだとか、少し変えた髪型だとか、そのような細々としたことも、実の兄が無愛想な分を補うように、見落とすことなく気付いて褒めて下さる……そんな方だから。
 眼鏡を掛けた私は、私自身、なかなか悪くないと思った。なにしろあの方は言葉を尽くして褒めて下さるけれど、それと同じくらい正直な方でもあった。「ピンクだったら、ネフリーにはこの濃い色よりも、少し黄色掛かった淡いピンクの方が似合う」などと言われたことも、一度ならず。その指摘は具体的で的確で。それには成程と頷きつつ、それでもやはり褒められた方が嬉しいので、ちゃんと気を遣うようになって……今思うと、私の美意識はそうやって磨かれたのだと思う。
 そのように……丁度そういう年頃だったこともあって、身を飾る小物として意識することも多かったけれど、眼鏡による視力の補正は必要だと……実際眼鏡を掛けてみて、嘆息することも屡々だった。眼鏡によって拓けた視界は、想像していた以上にクリアだった。
 たとえば、夜空に浮かぶルナ。眼鏡を掛けて見たルナは、裸眼で見るより半分ほども小さい。視認できる星の数も、倍ではきかない。積雪と降雪の白にとけて曖昧だったロニール雪山の嶺は、随分と急峻に見えた。
 そしてピオニー様にお会いしたときも。……ピオニー様の御髪は、ちょっと他にないくらいきらきらと綺麗なので、遠目でも見誤ることはない。けれど、これまで……ぼやけたアウトラインはあまりあてにならないので、形というよりおおよその色でものを見分けていた……そんな距離で、表情まで見て取れることに息を呑んだ。雪景色の中に、くっきりと鮮やかな輪郭で佇む、姿。私は知らなかった……知ってしまった。今まで、ぼんやりとしか見えていなかったから、だから屈託なくあの方を見つめていられたことを。……それは心情的な意味合いが強いけれど、単に具象としても強烈に恥ずかしい。ピオニー様は眼の良い方。その眼で……見られていることに気づきもせず、ぽうっとあの方に見惚れる私を見ていた筈だから。
 そんなことを考えていた折りも折り、視線が合いそうになって、咄嗟に目を伏せた私は、ピオニー様が表情を消したことに気が付かなかった。駆け寄ってきた気配は雪を踏む音で感じた。だから、ピオニー様に両肩を強く掴まれて、心底、驚いた。
「ネフリー……、その眼鏡。どうした」
 怖いくらいに真剣な、瞳。
 かといって、怒るでも焦るでも驚くでもなく……凪いだ湖面のように平坦で色を持たない声。眼鏡が似合うとか似合わないとか、そういう次元の話をしている雰囲気ではない。
 今の私には判る。この顔は、事態を俯瞰した視線で見つめ、最悪を含むあらゆる可能性を検討し、客観的な判断を下す管理者の顔。今では韜晦が進んで滅多に見ることができない、ピオニー様の支配者としての資質を物語る、顔。
 しかし、当時の私はこういう反応はまったく想像していなかった。
「え……えっと、近眼で」
 それでもピオニー様のただならない様子は理解できた……というより、気圧されて、やっとそれだけ答える。若干吃った、最低限の反応。けれど、それでも用は足りたらしい。
「近眼。ああ、そうか。そうだよな……」
 あの方は己の額に手を当てると、大きく息を吐いた。
「すまない。俺としたことが、ちょっと取り乱した。それ、近眼用の眼鏡なんだな?」
 その言葉に、私も、ピオニー様が譜眼の兄を連想したことに思い至った。
 私は自分が近眼だということを知っていたので、考えもしなかったことだけれど。ピオニー様は、姿形よりも、まず私の身を心配して下さった。そして案じたのはおそらく、兄のことも。そう、ピオニー様は、そういう方。
 浮ついていたことを内心恥じながら。なんでもないような笑顔を作って、あの方の肘のあたりに軽く触れる。
「心配ないわ。お医者様にも診ていただいたけれど、ただの近眼」
 そう告げれば、ピオニー様はふうっと表情を緩めた。それが見て取れたので、意識的に、殊更華やいだ、はしゃぐような声音で続ける。
「私自身、気が付かないくらい、少しずつ視力が落ちていたみたい。これほど遠くがはっきり見えるなんて、とっても新鮮」
 その言葉を証明するように、その場でくるりと周囲を見渡してみせる。ピオニー様の苦笑する気配に、よかった、と思う。あまり私に見せることのない、硬質の表情……それはそれで意識を全部持っていかれるほど惹き付けられる、けれど。やっぱりピオニー様は、笑顔が一番素敵。
「暢気だなあ。近眼だっていっても、これ以上悪化しないように気をつけないとな。ま、眼鏡はよく似合ってるけど」
 そんなことを言いながら、ピオーニー様は、ぽんぽんと私の頭に軽く触れる。
 こう、微妙な含みのある会話をした後でも、ちゃんとに褒めて下さるあたり、妙に律儀で何となく可笑しい。そう思いながら、褒められれば嬉しい私も、大概単純だけれど。
「ピオニー様ったら。私、そんな子供じゃありません」
 浮き立つような気分。それを粉塗するように、触れられた頭に手を遣りながら少し眉を寄せてみせれば、
「はは、そっか」
 そう笑いながら、また、ぽんぽん、と。
 ……ピオニー様の、この手が好き。大きくて温かくて、とても安心できる、手。
 昔、この手には魔法が掛かっているに違いないと思っていた。
 心配ないとか、大丈夫とか、頑張ったなとか。ピオニー様は言葉を惜しむ方ではないけれど、それを補強するように触れる手。それは私だけではなく、あの兄やサフィールにも。
 記憶も朧気な、物心つくかつかないかの頃。私はなんとなく兄が怖かった。兄は妹……私の面倒をみるときも感情を窺わせない無表情で、好かれているのか嫌われているのかも判らなかった。手間を掛けさせておいて、不満など言えないけれど、淡々と機械的な兄に、私は愛玩動物ほども思われていないのだと、そう思っていた。
 その兄があの方と出会って。私を寝かしつけた兄が、布団をぽんぽんと叩いておやすみと言ってくれたときは、一瞬、何が起きたのか判らなかった。それまで兄は接触など世話をするための必要最低限、こういう理屈では説明しにくい余分な行為とはまったくと言っていいほど縁がなかったので、些細なことだけれど、本当に驚いた。
 ……兄は。触れられる距離にありながら、とても遠いところにいるのだと、幼心にも気が付いていた。そう、真理を模索するのに適した、冷たく美しいひとりきりの密室……そういうところにいるのだと。そこに風穴を開けたのは、そういうものだと思っていた私や、兄を崇高視するサフィールではなく、対等につきあうことで兄の心の琴線を震わせたピオニー様。兄はピオニー様と触れあって初めて、淋しいという気持ちを覚えたのだと思う。
 触れたり、触れられたりすることで得られる安心感とか親愛の情とか、そういう機微を知らなかった兄にも強く作用する……ピオニー様の、魔法の手。
 ぽんぽんと頭を叩かれるのは、嫌じゃないどころか、今でもとてもとても好き。
 けれど、それではずっと妹のまま。
「でも……そうだな。ネフリーは昔っから可愛かったけど、これからはどんどん綺麗になるんだろうな。てか、同年代の目から見たら、もう、可愛い子というより綺麗な人、なんだろう。俺としちゃ鼻も高いが、そんなに急ぐのは勿体ないような、淋しいような」
 そう仰って下さるのは、嬉しい。
 けれど、それはやっぱり兄の視点。
 兄妹という立場を失うのは怖い。妹としてなら、これ以上を望むべくもない情愛を注がれていると、その自覚はあったから。このままでいいという、冷静な打算も、ないわけではなかった。けれど、それでも。
「淋しい、なんて。……そう思われるなら、まだ急ぎ足りないみたい」
 目を、伏せて。
 落とした視線のその先の……あの方の手を取り、そこに頬を寄せる。
 この雪のなか、さすがに冷えてはいるけれど、それもあまり気にならない。つくづく私はこの手……この手の持ち主が好きなのだと、心から思う。
「ねえ、ピオニー様」
 決意をこめて見上げれば。軽く目を瞠りながらも、絶えることない穏やかな微笑。
 その、余裕を。少しでも崩してやりたくて。
 寄せた掌、そこにそっと唇を落とす。
「私……もう、子供じゃないんですよ……?」
 


 …………。
 …………。
 ああ……。
 若気の至りというか、至らなさというか。
 けれどそれはもう、これ以上なく真剣だった。
 悔いは、正直、無いとは言えない。むしろあの方に関しては、後悔はもとより承知の上で、敢えてその道を選択することばかりだったように思う。そう、あの方とお別れしたときも。それでも、あの方に国を捨てさせず、この国から玉座に最も相応しい方を奪わず、ささやかながらこうしてあの方を支える仕事ができる……そういう意味では、その後悔に満足さえ覚えている……というのは言葉としてちょっと変かしら。
 けれど、後悔も満足も禍福と同じ、糾える縄のようなもの。
 哀しみや憤り、歓びや幸せ。
 それらをすべて抱いたまま、私は歩いていくのでしょう。
 そう、自ら望んだ恋の傷、その痕が甘く疼く夜も。

 あの方のもうひとつの故郷、途切れることなく雪の降り積む、このケテルブルグで。


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【あとがき】
ベースにあるのは『なごり雪』(なので、話としては春先ではなく真冬のイメージなのですが、他にタイトルを思いつけませんでした)。で、『なごり雪』はピオニー視点っぽい歌なのでそのB面、みたいな話にしてみました。幼馴染みから持ち上がりの年の差カップル。そりゃもお約束というか一度は言わせてみたいですよねえ、「子供じゃないの」って!
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